1985年のHPC

HPC界のみなさま

電子ジャーナルHPCwire Japan  https://www.hpcwire.jp/
に掲載中の『新HPCの歩み』は1985年に入りました。今週号まで4回に分けて掲載しています。日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落した年、つくばで科学博が開かれた年です。各年の初めに「社会の動き」を書いていますが、私としてはかなり力(リキ)を入れています。ここも御笑覧ください。

1985年は、量子コンピュータにとって記念すべき年となりました。Oxford大学のDeutschは量子回路と量子チューリングマシンを定義し、以後量子コンピュータはその枠組みで議論されるようになりました。物理学者Feynmanが来日し、学習院大学で「未来の計算機」と題し、量子力学に基づく可逆計算機について講演しました。

スーパーコンピュータでは、日本電気がSX-2を出荷、富士通がVP-400を発表し、Cray社はCray-2を、IBMは3090/VFを発表しました。Convex社はCray-1と互換のミニスーパーC1を、Intel社は汎用プロセッサによる超並列機iPSC/1を発表しました。また、イギリスでは、超並列を目指したTransputer T414が発売されます。日本のスーパーコン大プロの向こうを張って、西ドイツの国家プロジェクトSUPRENUMが始まります。

ISSCC 1985では日米の各社が、1 Mb DRAMに関する発表を競って行いましたが、東芝は高い歩留まりにより他社に大きく先行します。6月にSIA(米国半導体工業会)から「日本の市場が閉鎖的かつ不公正」との訴えがなされ、8月から日米半導体協議が始まります。他方、アメリカのNCARの調達では、一端落札していたSX-2が政治的圧力で取り消され、Crayに代えられました。日米スーパーコンピュータ摩擦の始まりです。

Alan Karp(IBM)は、超並列コンピュータが本当に役立つのか疑問を抱き、Karp Challengeを公開します。翌年始まるGordon Bell賞の先駆けと言われています。

アメリカでは、NSFが5か所のスーパーコンピュータセンター設置するとともに、これらと各大学を結ぶネットワークの構築を発表しました。日本でも、電気通信事業法が改正されてパソコン通信が始まるとともに、JUNETやBITNETが海外と接続されます。

現在、ほとんどのCPUやFPUで使われているIEEE浮動小数点数標準IEEE 754-1985が制定されます。

日本では、私企業の計算流体力学研究所が設立され、今後各社のスーパーコンピュータを設置して行きます。

アメリカでは、SolomonやILLIAC IVの開発で有名なSlotnick氏が急死し、日本では高橋秀俊先生、元岡達先生が亡くなられました

小柳義夫