1989年のHPC(その二)

HPC界のみなさま

20世紀の語り部、小柳です。電子ジャーナルHPCwire Japan  https://www.hpcwire.jp/
に掲載中の『新HPCの歩み』は、今週をもって、1989年の4回を完載いたしました。来週からは1990年です。後半2回分を御紹介します。

第2回目となるSC’89がネヴァダ州Renoで開催され、筆者は初めて参加しました。日本をいかに打ち負かすかがテーマで、「今○億ドルを投資すれば、○年後に日本に勝てるが、このままでは永久に日本の後塵を拝することになる」などと熱っぽく語られていました。SCはまだアメリカの「国内」会議でした。この動きが1990年代のHPCCに繋がります。

日本のHPC研究開発の情報はなかなか海外に伝わらず、日本はまだ神秘の国でした。そのためでしょうか、SCでは(筆者の入った1件を含み)10件もの日本からの論文が採択されました。特に注目されたのは、渡辺貞(日本電気)のSX-3に関する講演でした。ACM CSCでも、「日本のコンピュータ科学研究」の特別セッションが企画されました。

アメリカを中心に超並列商用機が出はじめます。とくにnCUBE-2は日本にも数台設置されました。他方、Inmos社が買収され、夢のトランスピュータT9000は結局夢と消えることになります。

マイクロプロセッサの性能が飛躍的に向上し、Attack of Killer Microsが言われました。この年、HOT CHIPSが始まります。ネットワークでつながれたWS/PCを並列コンピュータとして動かすソフトPVMの開発が始まります。公開は1991年、「貧者のスーパーコンピュータ」と言われました。

Gordon Bell博士は、「4Kから32Kノードのマルチコンピュータか、数百万のノードのconnection multiprocessorを使うことにより、1995年までに1 TFlopsが実現する」と予言しました。果たしてどうなったか?

格子ゲージ専用計算機では、日本では我々のQCDPAXがやっと完成しましたが、ニューヨークのColumbia大学でも、ローマ大学でも動き出しています。筆者は、ユーゴスラビアの帰り、ローマ大学まで見に行きました。

小柳義夫