1991年のHPC(その一)

HPC界のみなさま

二十世紀の語り部小柳義夫です。電子ジャーナルHPCwire Japan https://www.hpcwire.jp/
に掲載中の『新HPCの歩み』は、6月27日から1991年に入り、6回にわたって連載します。最初の2回を簡単にご紹介します。

前年初めから日本の株価は下がり、バブルは崩壊していたのに、甘く見ていた人が多かったようです。湾岸戦争が勃発し、日本は派兵を迫られます。4月筆者は東大に移りましたが、筑波大学のQCDPAXは本格稼働に入り、CP-PACS計画も進みます。立花隆氏が筑波大学に来訪してルポルタージュを書きます。第五世代は最終年度を迎え、新情報(RWCP)の準備が進みます。

アメリカは8月第二次日米半導体協定を強要して、日本国内で生産する半導体規格をアメリカの規格にあわせることや、日本市場でのアメリカ半導体のシェアを20%まで引き上げることを露骨に要求しました。スーパーコンピュータでも、日本のスーパーコンピュータの性能は見せかけだと批判し、日米で性能評価ワークショップがハワイで開かれ、筆者も参加しました。

航空宇宙技術研究所では、三好甫先生を中心として、アメリカの批判を招かないようにしながら、VP-400より100倍高速な数値風洞計画が進みます。なお、「数値風洞」の項は7月4日から全面改訂しましたので、もう一度お読みください。

Supercomputing Japanの2回目が池袋で開催されます。リクルートISRは、SX-2Aの計算時間400時間をアカデミアに提供するほか、青山でワークショップを開催します。たまたまですが、リクルートISRの所長であったRaul Mendez氏のインタビューも本誌で7月4日公開されています。

アメリカから「日本では公的な研究機関でも、企業の研究部門でもMPPの開発は盛んにおこなわれているが、商品のMPPは作っていない。企業は非常に保守的である。」との批判がなされています。日本のMPPは10年以上の遅れをとっていたと言われます。

小柳義夫