1991年のHPC(その二)
HPC界のみなさま
二十世紀の語り部小柳義夫です。電子ジャーナルHPCwire Japan https://www.hpcwire.jp/
に掲載中の『新HPCの歩み』は、6月27日から1991年に入り、6回にわたって連載しています。真ん中の2回を簡単にご紹介します。先週は第100回となりました。前回の連載で100回になったのは2003年の記事なので、だいぶペースがゆっくりです。
各社のPIMやAP1000など日本も超並列機を開発していますが、松下電器はスーパースカラプロセッサOHMEGAを独自開発し、超並列機ADENART-IIに向かいます。日本鋼管は、井戸禎光氏ら約10名の技術者をDallasのConvex本社に派遣し、超並列機(後のExemplar SPP)の共同開発に入りました。このことは製品が出てから知りました。
日本でもようやく電子メールやニュースが普及し始め、アカデミアだけでなく産業界にも広がり始めました。BITNETとWideとの電子メール交換が正式に開始しました。まだ漢字はダメでした。インターネット接続も広まりつつあります。
SC91のBoFでHPF (High Performance Fortran)への動きが始まり、精力的に開発が進みます。データの分割だけを指示することにより、データ並列性を検出し、自動的に並列化する言語です。同時並行的にMPIの標準化の動きも進みます。
アメリカのブッシュ政権は、上院議員ゴアなどの提唱するHPCC計画を始めます。1993年にはクリントンーゴア政権に継承されます。その一つとしてPetaFLOPS Initiativeも始まります。
これに対抗して、ヨーロッパはいかにすべきか、ECはCERN所長Rubbiaに検討を依頼し、Rubbia委員会は「ハードは無理なので、ハードは諦めアプリ開発で優位を取れ」と勧告します。筆者は「それではよいアプリはできない」と批判記事を書きました。
高エネルギー研のコンピュータ関係で大変お世話になった番野善明技官が帰宅時交通事故で亡くなられました。実はアマチュア天文家としても知られ、小惑星番野 (3394 Banno)は番野氏を偲んで命名されました(最近知りました)番野氏は星になりました。。
1991年の最後は、は国際会議やアメリカなどの産業界です。CM-5が発表されます。
小柳義夫