1999年のHPC(その一)

HPC界のみなさま

二十世紀の語り部小柳義夫です。電子ジャーナルHPCwire Japan https://www.hpcwire.jp/
に掲載中の『新HPCの歩み』は、今週から1999年に入りました。世紀末まで残すとこあと1年。ノストラダムスの大予言が話題になりました。今週の記事をご紹介します。「社会の動き」「地球シミュレータ計画」「日本政府の動き」です。

1997年から始まった科学技術会議の情報科学技術部会は、諮問25号「未来を拓く情報科学技術の戦略的な推進方策の在り方について」に対する答申を出しました。私は議論の中で、2010年ごろを目途にペタフロップスを実現することの必要性を力説し、一応文言は入りましたが、委員たちの支持は強くありませんでした。ネットワークを主軸とする情報化社会の方に注目が集っていました。

同じく1997年に始まった未来開拓「計算科学」は中間評価を受けましたが、忘れもしない1986年のQCDPAXプロジェクト提案のヒアリングで「速い計算機を作りたいのか、物理を研究したいのか、どっちかはっきりしろ」と詰問して提案をつぶした時の長倉先生が評価部会長だったので思わず身構えました。幸いこのときは好々爺でした。中間評価委員会からは、「なんで汎用の計算機を買うのでなく、専用の計算機やプロセッサを開発するのか」という根本的な質問が出されました。そこで、単にショーウインドーに並んでいる計算機を買ってくるだけでは最先端の研究はできない、今の言葉でいえば「コデザイン」が必要だと主張しました。

日本学術振興会の国際科学協力事業のためのチェコ訪問団に加わり、プラハの大学、研究所、教育省などを訪問しました。チェコは初めてで、カレル橋からモルダウ(ヴルタヴァ)の流れを眺め、古城ヴィシェフラドの廃墟を散歩しながら、スメタナの組曲『わが祖国』を思いました。

客員研究員としてお手伝いしていた日本原子力研究所計算科学技術推進センター(目黒)では、並列数値計算のライブラリを開発していましたが、その名称を所内の研究員から募集しました。SAMMA(「目黒」だからか)などという面白い案もありましたが、PARCELに決まりました。

さて次は日本の大学センターと学界の動きです。大学センターを結んでいたN-1ネットワークが、2000年問題が原因で停止し、TCP/IPに移ります。

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小柳義夫