2006年のHPC(その二)
「平成の語り部」小柳義夫です。電子ジャーナルHPCwire Japan https://www.hpcwire.jp/
に連載中の『新HPCの歩み』は、すでに2006年に入っています。先週の新HPCの歩み(第236回)-2006年(b)-と、本日公開の新HPCの歩み(第237回)-2006年(c)-についてご紹介します。(b)は「次世代スーパーコンピュータ開発」(その二)、(c)はその他の日本政府関係の動きです。
次世代スーパーコンピュータのシステム概念設計は、14もの提案の中からF案とNH案に絞られました。F案は建設された「京」コンピュータによく似ていますが、相互接続網がTofuではなく、ToFuです。82944という計算ノード数は同じです。NH案は、結局実現しませんでしたが、2013年に日本電気が発表したSX-ACEに似ています。詳しくは本文をごらんください。
どこに建設するかを決める立地検討部会を7月に設置しました。政治問題になりそうなので、部会長は、黒川清内閣特別顧問(当時、日本学術会議会長)が務めました。15か所の候補地の推薦があり、慎重に議論を進めます。その経過は、「次世代スーパーコンピュータ施設立地評価報告書」にきわめて詳細に記録されています。決定は翌2007年。
(a)の記事と合わせて見ると、全体としてシステム先行でした。応用については各分野からターゲット・アプリケーションを選定し、順位付けをしましたが、計算需要については、それぞれ何PFlopsの計算機が欲しいという漠然とした集約で議論が進んでいきました。その後の「富岳」や「富岳Next」では、各分野でロードマップを策定し、そこから計算需要を算定している(実際には当たらないが)こととはだいぶ違っています。
政府関係の動きで重要なのは、日本学術会議の改組です。先日5月11日、学術会議の法人化が学界の反対を押し切って決定されましたが、その一回前が、2005年の会員選出方法の変更です。1984年以来、学協会からの推薦に基づいて選出していましたが、この時、日本学術会議が自ら先行する方式に変更されました。そもそも、1984年以前は、有権者の選挙で決めていました。わたしの院生時代、1本論文が通ると有権者として登録でき、学界に身を置いたと実感しました。票集めが見苦しいと学協会選出に変更しましたが、学術会議が研究者から離れていく危険を感じました。今回(2005年から)、さらに学協会も会員選出に関与しなくなり、「学者のお手盛り」という批判が出てくることを恐れました。ただ、2000人強の連携会員という制度ができ、私も一人に加わりました(任期6年)。
2025年の強引な学術会議法人化に際し、もし、有権者による選挙であったなら、研究者が自分のこととして議論できたのに、と悔やまれます。
JSPSワシントンセンター主催のスーパーコンピュータに関する”Science in Japan” Forumを企画することになりました。丸一日のフォーラムで、日米から話題を提供しましたが、さすが首都ワシントンで、政府機関からも多くの聴衆が集まりました。わたしの講演では、1980年代90年代に414%の関税など日米スーパーコンピュータ貿易摩擦でアメリカが日本に対しいかに理不尽なことをやったかを力説しました。聴衆は分かっているのか、質問や反論はありませんでした。この414%から見ると、2025年にアメリカが中国に課した145%の関税など小さく見えます。
次回は日本の大学センターの動き、学界の動きです。東京工業大学のTSUBAMEが、地球シミュレータを抜いて日本最高速のコンピュータとなります。
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