1996年のHPC(その三)

HPC界のみなさま

二十世紀の語り部小柳義夫です。電子ジャーナルHPCwire Japan https://www.hpcwire.jp/
に掲載中の『新HPCの歩み』は、1996年の話の後半に入りました。先週と今週の記事を御紹介します。内容はこの年に開かれた国際会議ですが、SC96については、今週と来週の2週に分けて詳しく書きます。今週は前半だけ。

1993年にヨーロッパベースの国際会議として始まったHPCN Europeは、4回目をBrusselsで開催し、展示も講演も力(リキ)が入っていましたが、恐らくこの年がピークで、その後衰退の一途をたどり、2001年が最後となります。

Manheim Supercomputer Seminar(後のISC)で発表された7回目のTop500では、東京大学大型計算機センターのSR2201/1024が堂々トップに入り、日本の新聞は小さく報道しました。トップ20位までの22件中、9件が日本設置のマシンでした(内8件は日本製)。Top500全体では93件が日本設置。

1997年にSeoulで開く予定の第2回HPC Asiaの準備会がMaui HPC Centerで開催され、私は初めてマウイ島を訪れました。

今週号はSC96の前半です。11月にペンシルバニア州のPittsburghで開催されたSC96での最大の話題は、スーパーコンピュータの父Seymour Crayの不慮の事故死でした。すばらしい追悼講演が行われ、Seymour Cray賞の創設が宣言されました。

私は初めて委員(Round Table委員会)を務めましたので、当時のPanelやRound Tableのプログラムが決まる内幕の一端を紹介しました。

初めての女性IBM FellowとなったFrances Allenの基調講演は、聞いたときは「つまらない」という印象でしたが、その後読み返してみると、30年近く前の発言としては、現在のIT社会の到来を正しく予言しているところがあります。彼女はバーチャル企業の出現が社会を変えると予言しましたが、まさに言い当てています。ただ、その主役がBoeingやChryslerや大保険会社だろうと予測したのは外れていて、主役はGAFAなどとなりました。情報社会がpeople-centricでなければならない、と断じたところも現代の問題に通じます。

ECMRFのDavid Burridge所長が、プログラム委員長のBill BuzbeeをOHP係として総合講演を行い、NCARでのSX-4問題への皮肉を交えながら、天気予報におけるHPCの重要性を述べました。

Pittsburghの公園で見かけたClinton Furnaceにリンクを張りましたが、これは2003年に改装した後のもののようです。当時は、もっと荒廃した感じでした。

次回はSC96の後半です。

5月8日の「新HPCの歩み(第138回)-1996年(d)-」では、「世界の学界の動き」を書きましたが、一つ重要な動きを忘れていました。「Groverのアルゴリズム」です。Groverは、「量子コンピュータを用いれば、N個の要素を持つ未整序データベースから指定された値を、O(N^1/2)の計算量で検索できる」ことを証明し、5月の国際会議で発表しました。付け加えておきます。

ご笑覧いただければ幸いです。総目次は https://www.hpcwire.jp/new50history です。

小柳義夫